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 8月24日、民主教育をすすめる道民連合、連合北海道、北海道平和運動フォーラム、北海道私立学校教職員組合協議会、札幌市立高等学校教職員組合、北海道教職員組合主催により「平和憲法を守り教育を創る全道集会」が開催されました。本集会は、「平和憲法を守り、教育を創る道民運動」の起点として、子どもの「貧困・格差」解消、教職員の長時間労働是正などに向けて、一人ひとりが自らの言葉で語りかける「教育を語る全道対話運動」をすすめるための学習と意志統一の場として開催されました。

 これまでも、子どもや学校現場が抱える問題を広く訴え、一人ひとりの人権を保障するゆたかな教育の実現に向けて、地域・住民と連帯し道民運動にとりくんできましたが、改めて、今すすめられている政府・文科省の「教育政策」のねらいを明らかにするとともに、「子どもの権利条約」の理念にもとづき、子どもたちが意欲をもって学べるゆたかな教育の実現をめざして、地域のとりくみから創り上げていくことが重要です。

 以下に、中央大学文学部教授の池田賢市さんによる講演をまとめました。講演資料はPDFファイルでダウンロードすることができますので、ぜひご活用ください。

 講演に先立ち、民主教育をすすめる道民連合会長である岩本一郎さん(北星学園大学教授)から主催者挨拶がありました。その中で野球観戦のイラストを示しながら、「平等」と「公正」の違い、そしてその前提条件を整えることを「ずるい」と思うか、「当たり前」と思うかと、人権意識にかかわる話がありました。池田さんは、この挨拶を受け、それに対する見解から話を始めました。

 しょうがいのある人がしょうがいのない人と、同じ場で共に社会活動(学校教育を含む)に参加する手立て(環境の変更・調整)のことを「合理的配慮」と言う。
 現在、日本で語られる「合理的配慮」は、このイラストで言うと、「箱を配る」ということになっている。例えば壁を網にするなど、「箱がなくてもみんなが野球を観られるようにするには?」と、全員がそのままの姿で権利を行使すること、「なぜ箱がなければ全員が観られないという状況を作っているのか」と、制度そのものを見直すことが本来の「インクルーシブ教育」である。

 学校では、「勉強についていけない」ことを理由に、一定の子どもたちが排除されようとしている。
 この「勉強についていく能力」について考えるために、先に「分類」という概念について触れる。

 私たちは「分類」することでものごとを理解しようとする。まったく同じ人間はいないのだから、「分類」という行為を人間に当てはめようとすれば、「似ているもの」を集めて、そこに名前をつける作業をすることになる。「似ている」ということは「異なっている」ということ。それを「分類」するということは、誰が、どんな観点で整理(管理)しようとしたのかが問われるべきである。つまり、分類する側の意思には、権力作用を伴った強制的(そしてそこに価値が付着すれば差別的)な排除の論理が成立する。

 このような「分類」は日常的に行われている。「高齢者」「女性」「人種」など。このような名前(レッテル)を付けることで、本人たちの生き方とは関係なく、その人たちへの「まなざし」を(勝手に)共有することになる。そしてこれらの「分類」は、常に優劣の価値が政治的に付着する危険性があり、時に架空(でっち上げ)のものであっても正当化される。「年齢」に着目した「分類」として、人の一生のあり方を乳幼児期・児童期・青年期・壮年初期・中年期・老年期と、年齢を基盤として区切り特徴づける「発達段

階論」が、教育学や心理学においてなじみがある。それぞれの段階には「発達課題」が設定され、達成できているかどうか、「早い」か「遅い」か、と「基準」からの距離によって「障害」という「分類」がなされる。

 学校では、性別や年齢を分類基準の典型とし、「もう5年生なのだから、これくらいのことはできなくては…」といった観点で子どもたちが評価されていないだろうか。「気になる子」「問題のある子」といった言い方においては、いったい誰が気にしたのか、なぜ気になったのか、なぜ問題と意識されたのかを考える必要がある。学校が「社会生活に必要な知識・技能を習得するところだ」とされているかぎり、なんらかの知的要求に対する「できる・できない」が子どもたちを分類する有力な基準となる。

 「成績がいい」と言うことは、イコール「対応力に優れている」と言うことができ、さらに付け加えれば、「疑問を差し挟まず、求めに対応すること」ができれば、「対応力に優れている」と評価できる。「本当に求めに応じていいのか」と達観してしまうと、高校入試などに対応できなくなるので、応じざるを得ない。そして「学習指導要領」は、「~ができるようにする」という目標のもと、要求されたものに従順に応じていこうとする受け身的態度を養成しようとしているのではないか。
 現在、企業や経済社会が効率性・生産性・合理性を高い「能力」として求めている。能力は社会的にその都度定義され、その要求内容が変われば、いままで「能力がある」と言われていた子どもが、逆に「能力に問題がある」と言われ始める。

 このように考えると、たとえば「障害児」とは、<外部からの名付け>にほかならず、学校が子どもたちに何を期待するかによってつくり出されてきたものであると言える。
 学校での教育実践および私たち自身の中に「分類」や「能力主義」の芽がないかどうか、チェックしていかなくてはならない。
 学校においていかに「学びへの権利保障」を実現していくか。その中でなかなか学校に根づいていかないものとして、「子どもの権利条約」第12条、子どもの意見表明権の規定がある。権利としての学びを取り戻すためには、学校がもつ「管理」的側面を自覚し、それにいかに抗っていくかが重要となる。

 おわりに、人権教育の実践に向けて、1つめは「人権教育を道徳教育の中に解消させてはならない」こと。道徳の授業の中で人権の視点を入れたから「人権教育ができている」と思わないでほしい。両者は似ているように見えるが、課題設定のあり方が異なる。人権教育は社会的課題として問題に迫ろうとするが、道徳教育は個人の心のありようを問題とする。

 2つめは、様々な問題について自己責任論のように個人の問題に還元して問題解決を考えないようにすること。

 3つめは、見えやすい被差別当事者のみが「当事者」だと認識しないこと。差別をしたくなくても、自分も加担させられているかもと世の中の仕組みを見た方がいい。

 4つめは、差別をなくすことをめざすのだが、完全になくなるとイメージするよりも常に発見していく過程として人権教育を考えたほうがよいのではないか。かつては女性に選挙権がない時代もあったし、ジェンダーについてなど50年前には誰も差別だとは認識していなかった事象が、今日では明確に差別だと言われる事例はいくらでもあるように、今は誰も気づいていないが、50年後から見れば、明らかな差別事例がいま目の前で展開されているかもしれない。この「発見」のためには常に自由に発言できる(不当な扱いを受けていると言える)環境が確保されていなければならないし、子どもの「おかしい」というつぶやきに敏感にならなくてはならない。この環境づくりは、人権教育の前提となる。

 「どうして、なぜ?」の問いを立てると人権教育になる。「どうしてこの子はこういう発言をする?」「なぜこの行為をする?」と目の前の事象に対し「ダメだ」と指導する前に、その発言や行動に至った理由を問うことで子どもの生活、この社会がなんなのかが見えてくるようになる。

 安倍首相は、「2020年新憲法施行」をめざし、「9条への自衛隊明記」を最重点に憲法改悪を目論み、「戦争する国づくり」へと突きすすんでいる。こうした動きと一体的に、改悪教育基本法を具体化した改訂「学習指導要領」は、教育の目的を「人格の完成」から「人材育成」へと変質させ「愛国心」や「規範意識」を押しつけるなど、「国家に従順な人づくり」を加速させている。

 子どもたちは、学びに対する意欲や興味を失い、自己肯定感を持てず、ゆたかな人間関係を阻害され、いじめ、不登校、自死など、様々な形で苦悩を顕在化させている。また、教職員は、「学力向上策」などによって「差別・選別」の教育を強要されるとともに、過酷な超勤に疲弊し、子どもたち一人ひとりに寄り添うことができずに苦しんでいる。

 学校は本来、子どもたちの権利が保障され、自分らしさを自由に表現できる「居場所」でなければならない。また、これらを実現させるために、教職員には、自主的・創造的な教育の保障とともに、ゆとりをもって子どもたちと向き合う時間が必要である。

 私たちは、子どもたちのいのちと人権、教育の自由を守り、憲法・「47教育基本法」「子どもの権利条約」の理念を生かした民主教育をすすめなければならない。そのため、安倍政権による憲法改悪を断固阻止し、改悪「学習指導要領」にもとづく「差別・選別」「管理」の教育から、子どもに寄り添う教育への転換を求める運動を、保護者・地域住民、民主的諸団体と連帯し、地域のとりくみから創り上げていくことを宣言し、集会アピールとする。

2019年8月24日

平和憲法を守り、教育を創る全道集会