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 「学校」を語る時、その時代を物語るワードがある。「モンスターペアレンツ」「ゆとり教育」「ネットいじめ」・・・、古くはスクールウォーズ世代の「不良」「落ちこぼれ」など。しかしこれらの多くは、子どもの実態や家庭・生活環境についてであり、「学校」を直接的に表すものは少なかった。そして、「学校」はこれら重大な問題に対して、目の前の子どもたちのために、文字通り必死に真剣に昼夜問わず向き合ってきた。
 さて、今最もトレンドなワードはというと・・・「学校のブラック化」。2016年の連合総研「教職員の勤務実態調査」で、小中学校教員の約8割が過労死レベルの超勤を余儀なくされている実態が明らかとなり、研究者やマスコミが取り上げたことで社会問題へと発展した。しかし、私たち現場教職員してみれば、先述した通り、ずっと昔からこのような実態の中で働き続けており、遅きに失している感すらあるのが本音である。それでも、超勤訴訟等を通して長年訴え続けてきた長時間労働の実態が、これほどまでに注目されたことは過去にはなく、今こそ千載一隅のチャンスであるとも言える。
 昔から学校現場はこのような実態だったにもかかわらず、なぜ耐えてこられたのか。二つの理由があると考える。一つは、超勤せざるを得ない場合、私たち教職員自身がその必要性を認め納得していたこと。例えば、学校祭の準備作業で退勤時間後も子どもが残って作業をしている時、夜や休業日に開催するPTA行事、など。もう一つは、杓子定規的な勤務時間の把握が困難なことから、ある程度学校(校長)の裁量で勤務時間の変更が行えていたこと。例えば、突発的な生徒指導によって深夜まで家庭訪問やその対策会議などがあった翌日は少し早めに帰る、運動会当日の準備が朝6時からだったので終了後は少し早めに退勤する、など。つまり、勤務時間を超えてでも必要に応じて働いた超勤分の振替は、十分ではないにしろ学校の裁量で校務に支障の出ない範囲で取得できていた。
 ところが近年、到底納得できない強制的な業務がじわじわと増えるとともに、2011年の会計検査院実地検査によって、1分1秒の勤務管理が強要されるようになり、現在は教職員の生命線である「校外研修」すら「厳格な運用」によって管理下に置かれ、満足に取得できない実態がある。

 今、「学校」の裁量で行える教育活動は、ほぼ無い。子どもたちは、登校するとまず「朝学習」で学力テスト対策のプリントが待っている。授業では、「学習規律」によって机上は教科書・ノートの置き場所や鉛筆の濃さ・消しゴムの色まで指定され、教員も黒板に書く内容やチョークの色まで決められている。また、給食時間や休み時間はどんどん削られる一方で、「小学校外国語」や「特別の教科 道徳」など膨大な学習量によってパンクするほど増えた授業時間に疲れ切って放課後を迎える。さらに、家庭に帰っては、全国平均より下回っているという「家庭学習時間」を増やすため、莫大な宿題プリントに四苦八苦している。
 教職員も一日に余裕などまったくなく、プリントの丸つけ作業、宿題づくり、そして雪だるま式に増加する各種事業の対応に束縛され、最も重要であるはずの教材研究は到底勤務時間内では行えない。
 このような毎日をくり返さざるを得ないのは、「学力テストの結果を全国平均以上にする」とした「点数学力向上策」を道教委が押しつけているからに他ならない。

 本来学校は、子どもたち一人ひとりの実態や個々の成長に合わせて、寄り添いながら「生きる力」と「ゆたかな心」を育む場である。そのためには、教職員の独自性と自主性が確保されることが重要である。また、教育のプロとして、いわゆる「資質」の向上をめざして自己研鑽に努めなければならず、それこそがこの仕事の醍醐味でもある。しかし、現在の教育行政は、教育の目的を「人格の完成」から国・政財界の求める「人材育成」へと変質させた次期「学習指導要領」にもとづき、「道徳の教科化」によって人の心を支配し、「学力テスト」でとことんまで競争心を煽り、「外国語」「プログラミング」等の適用力によって一部のエリートと多数の物言わぬ労働者を見定めようとしている。
 いったい誰がこんな「学校」にしてしまったのか。
 こんな事態になってしまった今、以前の「学校」を知る私たちの世代が、教育を再び現場に取り戻し、子どもたちとともに学ぶ喜びを若い世代に伝えることが重要である。
 今こそ、奮起しなければならない。

北教組教育文化部長 筆

一般財団法人 北海道労働文化協会発行『労仂文化』より転載

 小学校教員の一日は、朝、登校してきた子どもたちと教室や玄関で、「おはよう」とあいさつをするところから始まる。いわゆる、勤務時間の開始である。そこから、朝の会や午前の授業へと続いていく。給食時間になれば給食指導はもちろん宿題や家庭学習などのチェックを行い、ゆっくり給食を食べる時間もない。そして午後の授業を経て帰りの会を行い、清掃を終え、子どもたちは下校する。その間の「中休み」「昼休み」といった「休み時間」は、子どもと遊んだり、時には生徒指導を行ったりと、教員にとっての「休憩時間」ではない。労基法上規定されている45分間の「休憩時間」は子どもたちの下校後に設定されているが、子どもがいる間にはできない各種会議や打ち合わせ、研修などを行うため、「休憩」している教職員は皆無といってもよい。そうこうしているうちに、7時間45分の勤務時間は終了するが、翌日の授業準備(教材研究)、テストやプリント・家庭学習の作成・添削、必要に応じて保護者への連絡など、個人で行う業務があり、20時過ぎに帰宅することも珍しくない。私は教員となってから毎日このような超過勤務を行ってきた。

 多くの教職員が同様の勤務実態であり、家庭の事情などによって勤務時間終了後すぐに退勤した場合でも、残っている業務は自宅に持ち帰る、いわゆる「持ち帰り残業」が横行している。
 私はこのような勤務実態に対して、「なぜ?」という疑問をもたずに過ごしてきた。なぜなら、教材研究や家庭学習の添削などは、「子どもたちのため」に「やらなければならない」ことであり「当然やるべきこと」だからである。しかし、勤務時間終了後に行うこれらのことは「自発的勤務」とされ、勤務として認められていない。時間外勤務手当も支払われず、「タダで働かせ状態」となっている。その原因は、「給特法」にある。

 「給特法」は、「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」の略称で、1971年、政府・文部省が教育職員に対して時間外勤務・休日勤務手当を払わないことを企図して、強行採決された法律である。そのような背景で成立したことから、様々な問題点を抱えている。
 第1に、「時間外勤務を命じない」と規定されたことが、全く実態とかけ離れていることである。「給特法」には、「原則として、時間外勤務を命じない」「命じる場合は、限定4項目(生徒の実習、学校行事、職員会議、非常災害等)の業務に従事する場合であって臨時又は緊急のやむを得ない必要があるときに限る」となっている。しかし現実には、先にも述べたように多くの教職員が時間外に「やむを得ず」勤務しているにもかかわらず、「限定4項目」に当てはまっておらず、「命令によらない」勤務とみなされ、「自発的勤務」とされている。つまり、「個々の教員が自ら勝手にやっていること」とされているのである。
 第2に、「職務と勤務態様の特殊性」を口実にして、労働者性を否定していることである。「給特法」の第1条には、「法の趣旨を『教育職員の職務と勤務態様の特殊性』にもとづき定める」としている。つまり、「教育は教職員の自発性、創造性にもとづく勤務に期待され、その働き方は長期休業期間等もあることから特殊である」として、「勤務時間の把握」を否定するとともに、労働時間を計測するという労働原則を曖昧にしてきたのである。さらに、教職調整額4%を支給する代わりに「時間外勤務手当及び休日勤務手当は支給しない」とし、労働者であるにもかかわらず労働基準法が適用されてこなかった。そのため、教育委員会や校長は、時間外を抑制しなければならないという意識がなく、時間外業務がどんどん上積みされていったのである。
 第3に、教職調整額4%が全く対価として見合っていないということである。先述したように、「勤務態様の特殊性」から時間外への対価として「教職調整額4%」が支給されている。これは、「給特法」制定時の文部省調査を基にして算定され、当時の平均残業時間である月7時間41分(現在では6時間12分)相当の額であった。しかし、現在、小学校の7割、中学校の8割以上の教職員が月80時間以上の超過勤務を強いられており、明らかに勤務時間外の対価としては全く見合っていないのである。

 以上のような問題がある「給特法」によって、合法的に時間外勤務手当が支払われないばかりか、管理職による勤務時間管理の責務まで曖昧になり、結果「タダで働かせ状態」となっているのである。

 昨年度より、文科省の諮問機関である中央教育審議会「学校における働き方改革特別部会」において、「教職員の働き方」について話し合われている。その中では、「『給特法』の在り方も含む教職員の勤務時間等に関する制度の在り方」について検討を行っていくとした。しかし現実には、「勤務時間の上限を規制する」ガイドラインの設定や、「給特法」を存置したままの「1年間の変形労働時間制」に議論が傾きつつあり、私たちの求める「給特法」の廃止・見直しには進んでいない。

 「給特法」の廃止、もしくは見直しが図られない限り、教職員の超勤・多忙化解消にはつながらないことは、先述したことからも明らかである。教職員に労基法の原則が適用され、時間外労働の対価が支払われることになってようやく、道教委・校長は事の重大さに気づき、時間外勤務の抑制に向けて真剣に業務の見直しを行うのではないだろうか。
 そのためにも、今まで以上に「給特法」の問題点について、世論に訴え続けるとともに、教職員が「適正な働き方」のもとで日々研鑽し子どもたちの成長を支えていけるよう、改革を求めていかなければならないと強く感じている。

北教組法制部長 筆

一般財団法人 北海道労働文化協会発行『労仂文化』より転載

 2018年4月から小学校で、これまで「教科外の活動」とされていた「道徳」が、「特別の教科」に格上げされました。2019年度からは、中学校でも教科化となり、子どもたちの「心」が評価されることになりかねません。

 「教科化」されて間もない5月、日大アメフト部の「悪質タックル」をめぐる騒動をきっかけに、小学校「道徳」教科書(3社)に掲載されている「星野君の二塁打」という教材がNHKの番組で取り上げられ、ネットでも話題になりました。

 「星野君の二塁打」の大まかな内容は、次のとおりです。

逆転チャンスで星野君に打席が回ってきた。サインは「送りバント」だったが、得意なコースにボールが来たので打ったら、二塁打となりチームは勝った。しかし試合後、監督に「サインに従うという約束を守らなかった」として、次の試合は出場停止にさせられた。

 学校図書の6年生の教科書には、題材名とともに「よりよい学校生活、集団生活の充実」という「内容項目」(徳目)と、「チームの一員として」というサブタイトルが記されています。さらに文中には、「チームの輪を乱した」「ぎせいの精神が分からない人間は、社会に出たって、社会をよくすることなんて、とてもできないんだよ」などと監督が星野君を叱責する言葉があります。

 「悪質タックル」問題の後にこの「星野君の二塁打」を読むと、「この話が正義だと子どもたちに刷り込んでいいの?」という疑問が生じます。この教材の指導書どおりに授業を行い、「決まりを守り義務を果たすことの大切さ」について子どもたちに考えさせ、「監督に言われたことを守ることが正しい」との結論に帰着するべく議論を展開させるのだとしたら、子どもたちに対し、規則やルールへの盲従を強いるだけでなく、時には集団のために自己犠牲を払うことを「善」として刷り込んでしまいます。
 ですから、「星野君の二塁打」を扱う際には、「悪質タックル」問題も現実の題材として扱うことが大切になります。また、災害時などに思考停止して誰かの指示を待つことのリスクなども合わせて検討し、多様な意見を出し合いながら、「考え、議論する」時間にしていかなければなりません。

 文科省は「教科化」に際し、「考え、議論する道徳」を掲げ、「特定の価値観を押し付けたり、主体性をもたず言われるままに行動するよう指導したりすることは、道徳教育が目指す方向の対極にある」として、「教科化」をごり押ししました。しかし、文科省が検定した教科書には、「星野君の二塁打」のような「道徳教育」の目的と対極にあるものや、特定の「価値」へと誘導する設問が多くあります。特に、「権利と義務」を扱う教材を見ると、「一方的な価値観の押し付けになる」という「教科化」に対する懸念が、より現実のものになっています。その手法は、「集団生活等において他者に迷惑をかけない」というルールを「権利行使」と対立するものと設定し、集団生活を円滑に行うために権利行使を控えるように誘導するものとなっています。いわば、権利行使を「わがまま」と同視し、集団のために我慢することが「義務」であるかのように教える内容となっているのです。

 私たち教職員組合は、「道徳教育」を否定しているのではありません。子どもたちが、学びや生活をとおして様々な価値と出会い、自分にとり入れていくこと。そして、様々な状況に合わせて行使すべき価値を選び出し行動していく。さらに、試行錯誤しながら自らの道徳性を確立していく、その道程こそが「道徳教育」であり、「人格の完成」そのものだと考えます。

 先行実施された「特別の教科 道徳」は、子どもたちに新自由主義を是とする社会での適応を学ばせるものであり、その社会のあり方自体は疑わせないように構成されています。しかし、本来「道徳」とは、自らの生き方を問うとともに、社会のあり方にも向けられるべきものです。また、何を「善」とするか、いかなる生き方を「よい生き方」とするかは、一人ひとり異なるもので、方向づけられるものではありません。憲法及び「子どもの権利条約」は、一人ひとりの価値観や生き方が異なることを当然の前提として、自らの判断で選び取るものとし、そこに国家が介入することを禁じています。よって、学校は、まだ自分の個性を十分発揮できない子どもに、特定の価値や命令を押しつけるのではなく、子どもの気持ちに寄り添い配慮していくことが必要になります。

 「大切なものは目には見えない」サン・テグジュベリの「星の王子様」の一節です。教育は、子どもたちとともに、「目には見えない大切なもの」を探す営みです。そして、私たち教職員はその営みの中で、子どもの心の中にある「目には見えない大切なもの」を見つけ、私たちの心の中へも取り込んでいきます。教職員の日々は、子どもたちのことで頭も心もいっぱいになります。そんな生き方がすばらしいと思えるから、ブラックな労働環境に声を上げつつも、子どもとともに学校で学び続けています。
 「道徳の教科化」に対しては、歴史的な事実と子どもたちの権利を守る視点から、授業の工夫が必要だと考えます。しかし最も大切なことは、教職員が、子どもの人格形成の場としての学校のあり方を問い直し、目の前の子どもにとって何が最善かをともに考えながら日々の実践を充実させていくことです。

学校改革・教育課程自主編成推進委員 筆
一般財団法人 北海道労働文化協会発行『労仂文化』より転載

 2020年度から、小学校では今までの「外国語活動」が「外国語」として教科となります。また、中学校も2021年度から新「学習指導要領」となり、小学校の「外国語」を受けた内容の教科書となることが予想されます。

 現行の「学習指導要領」は2011年からスタートし、5.6年生に「外国語活動」が必修化されましたが、小学校の英語教育の歴史をふり返ると、2002年の「学習指導要領」改訂で「総合的な学習の時間」が設置され、その中にある「国際理解教育」の一環として初めて設けられました。新「学習指導要領」は2020年度からの実施ですが、既に2018年度から3.4年生は英語に親しむとした「外国語活動」が年間15時間、5.6年生は教科としての「外国語」を強制的に先行実施しており、評価も行われています。5.6年生の学習時間は現行の35時間から70時間と2倍になり、教育内容は「聞く」「話す」に「読む」「書く」が加わります。
 新「学習指導要領」のねらいは、中学年から「聞くこと」「話すこと」を中心に英語を学び、「英語が楽しい」という気持ちにさせてから、高学年では文字を「読むこと」「書くこと」にとりくませる、ことにあると言われています。しかし、実際には思い描くようなスムーズな移行とはなっていません。それは、学習内容の複雑さや教員の研修不足もさることながら、すべての教員に、「何がどのように変わるのか」「移行期間は何をすればよいのか」など、具体が周知されていないからです。

 ここでは、小学校における英語教育に反対の立場で、「小学校英語教育」の問題点を述べます。外部指導者や教育条件整備の問題についても後述しますが、これらの問題点が解消されれば賛成という観点ではありません。これらは授業を行わざるを得ない現状の問題点であって、例えこれらが解消されても、私たちがめざす「英語教育の目的」に照らせば、根本的に解決されるものとはならないからです。

 普段の生活の中で、まったくと言っていいほど英語を使う環境にない日本では、小学校から英語教育をスタートさせても大きな意味はありません。たとえ学校で「使える英語表現」を学習しても、生活の中で使わないのですから、あとはただ忘れ去られるだけです。また、英語学習中の言語処理能力・処理スピードは母語のそれを超えることは決してありません。この2点について母語と英語の割合が1:1となった時、「バイリンガル」と呼ぶことができます。したがって小学校段階では、英語力そのものを高めるより、まずは母語の力を高めることの方が、将来的に英語の処理能力の幅を広めるという発想の方が近道でしょう。

 「語学は早くから始めるほど良い」という意見がまかり通り、小学校英語導入賛成派はこの点をことさらに強調します。「環境から自然に言語を習得する場合は、低年齢からの方がより身につく」という意味においてはその通りと言えますが、効果があるのはあくまでも自然に言語を習得できる「環境」にある場合のみです。学習によって外国語を学ばなければならない環境にある日本の場合は、第一に必要なのは本人の興味・関心であって、そこに年齢は関係ありません。既述のとおり、外国語の処理スピードは母語を超えることはありませんから、強いて期待できる点と言えば音声面のみです。

 外国語を学ぶのは、小学校時代に母語による言語活動をとおして、理解・思考・表現などの力を養い、人として大切なことの基礎をしっかりと身につけてからで十分です。外国語を学習する真の目的は、外国語を媒介として、他国の人たちの考え方や文化・習慣を知り、より良い人間関係を構築することです。また、外国語の学習をとおして、国際理解を深め、平和・友好の国際連帯の精神を養い、真理と平和を希求する人間に成長することです。早期に英語教育を実施しても、この真の目的は達成できません。

 英語の免許を持っていない教員が授業を行うことは、英語教育上混乱を引き起こすばかりでなく、子どもに対して失礼であり、子どもの信頼を損ねることに繋がりかねません。また、先述した音声面でも、十分に身についていない教員の発音では逆効果です。そういう意味でも、教科化に向けてデジタル教科書やCD等の有効な活用が必要となるでしょう。

 地域の人材やALT(外国人語学指導者)など教員ではなく外部指導者が携わる場合は、①子どもの成長にふさわしい題材を選択すること、②子どもの特質を把握した上で指導法を考えること、③効率よく楽しく学べる環境を創ることなど、常にともに学ぶ姿勢を持って対応できるか心配です。特に「学習の入門期」(英語に限りませんが)には、きめ細やかさと慎重さを持って子どもと接する必要があり、すべての外部指導者にそれを求めるのは難しいのではないでしょうか。実際には、単に英語が話せるというだけの人がALT不足の補充で採用されている状況も報告されています

 小学校教員で英語の免許保持者もいますが、現状ではわずかです。20~30代の教員は英語の準備をして免許取得している人もいますが、40代以上の教員は英語を教えることを意識して採用されてはいません。しかし現状は、その場しのぎの研修ばかりで、超勤・多忙化のため、授業準備を行う時間も不十分と言わざるを得ません。

 移行措置期間に使う新教材「We Can!」のデジタル版があります。これはパソコンを使い、クリックすれば授業ができるように構成されています。しかし、免許不保持の教員にとっては、学習内容的にも授業展開的にも困難さがあります。また、これに対応した教育用IT機器がすべての学校には導入されておらず、これは大きな問題です。

 ALTの採用状況も市町村によって大きな格差が見られます。また、ALTとの打ち合わせの時間が足りない、意思疎通が難しいといった問題点も多く報告されています。一方で、英語の授業のために巡回教員が配置されているという報告もあります。学校によってはT1(主指導者)で授業をしてもらったり、T2(補助指導者)として担任やALTをサポートしてもらったりするなど、教科化への負担軽減の努力が見られます。

 以上、3点にかかわって問題点を述べましたが、教育条件が整っていない現状では「小学校英語」の教科化にあくまでも反対です。しかし、昨年度から始まった移行措置期間の中で、現状を考えて今私たちは何をしなければならないのかという観点から、小学校の外国語の教科化について考えてきました。現在小学校で使用している新教材「We Can!」「Let’s Try!」は、これまでの「中学校英語」の観点から見ても明らかに難解な内容です。今後、実際に新教材を使ってみて苦労したことや日常のALTとの授業づくりの困難などを、多くの機会において互いに交流し合い、さらに検討を深めていきたいと考えています。

 私たちは、子どもたちの側に立った「小学校外国語」をめざし、教育課程編成をすすめていきます。

学校改革・教育課程自主編成推進委員 筆
一般財団法人 北海道労働文化協会発行『労仂文化』より転載

 公職選挙法の改正(2015年6月19日公布、翌年6月20日施行)により、選挙権年齢が「20歳以上」から「18歳以上」に引き下げられ、16年7月の第24回参議院議員選挙は、初めて「18歳選挙権」が施行された国政選挙であった。新しい有権者の投票率(46.78%)は、20代の有権者よりは約10ポイント高かったものの、有権者全体の投票率を10ポイント近く下回った。「若者の政治離れ」が指摘されている中で、期待どおりの結果とはならなかったといえる。

 文科省は18歳選挙権の実施に向けて、高校生の政治活動を全面禁止してきた69年通知を廃止し、禁止・制限をさらに強調した新たな通知を発表した。新通知では、高校生の政治活動に関して、「生徒が国家・社会の形成に主体的に参画していくことが一層期待される」とした上で、「無制限に認められるものではなく、必要かつ合理的な範囲内で制約を受ける」とした。具体的には、①学校で行う政治活動について、「違法・暴力的なものになるおそれが高い」場合は、「制限または禁止」、②「学業や生活に支障がある」「生徒間に政治的対立が生じる」など学校教育に支障がある場合は「禁止も含め指導」、③「授業や生徒会活動、部活動を利用」して選挙活動を行うことは「禁止」、④放課後や休日であっても「校内」での選挙活動や政治運動は「制限・禁止」、などとした。

 教員に対しては、「個人的主義主張を述べることは避け、公正かつ中立な立場で生徒を指導する」とし、政治に関する教育は「文科省が作成する副教材を使用し、模擬選挙など実践的に行う」よう求めた。また、「学校の内外を問わず、地位を利用して特定の政治的立場に立って生徒に接することのないように留意する」としており、憲法で保障された活動にも、教員という立場を口実に様々な制限を強要することとなった。
 このままでは、学校で政治問題を考えることも、議論することも抑圧されることになる。子どもたちが、憲法の求める「平和的国家と社会の形成者」へと育まれる上で政治的諸権利の保障は必要不可欠なものであると考えれば、教員への制限は重大な問題である。「教員は個人的な主義主張を述べることは避けるべき」という風潮は、学校に「自粛」させ、「萎縮」となり、子どもたちの政治的な成長を阻むことになる。

 具体的な例としては、山口県のある高校で行われた「安保法制」についての授業がある。県議会で自民党議員が、教材に朝日と日経の2社だけが使用されたことを「政治的中立性」に問題があると取り上げ、教育長も答弁で同調した。しかしこの授業は「安保法制」についての政府見解や野党の主張などに対する生徒自身の意見を発表し、説得力のある意見に相互投票するもので、「政治的中立性」に何ら反するものではなかった(毎日新聞15年7月4日)。
 このように教員が工夫して試みた実践に対し、政治家がクレームをつけ、それに教育委員会が同調する流れは、正当な政治教育の芽をつみとり、自粛ムードに拍車をかけることになる。

 前川喜平元文科事務次官を招いた名古屋市の中学校の授業の件も記憶に新しいだろう。この授業に対し、国会議員が文科省を通じて調査したが、その内容は招聘した理由や天下り・出会い系バーの件などを問いただす不当なものだった。これに市教委は毅然とした対応をとり、4月には河村たかし市長が国会でのヒアリングで真相究明を求めるなど正統な反論をくり広げたが、「自粛」「萎縮」の種は確実に蒔かれた。

 本来、不当な圧力には毅然と対処し、現場が主体的な実践にとりくめるようにすることが、文科省・教育委員会の役割である。そもそも「政治的中立」という言葉は、戦前教育の否定と反省のもとに、国家権力に対して向けられた概念であり、政治教育や生徒の政治活動を制限するためのものではない。それが、06年教育基本法の「改正」により、その内容が巧みにすり替えられてしまったのだ。

 18歳選挙権をめぐる国会審議では、主権者教育に政治的中立性が強調されすぎている状況がみられた。ドイツでもイギリスでも、教員の側が自分の考えを述べたり、1つの立場をとって主張したりするということを否定されてはいない。実際、ドイツでは、「教員は生徒を期待される見解をもって圧倒し、生徒が自らの判断を獲得するのを妨げてはならない」として、教員による圧倒の禁止が定められている。つまり、「教員は自分と異なる意見を持つ生徒であっても正当に評価すること」という意味の「政治的中立性」が求められているだけである。

 16年に行われた日弁連のシンポジウムの中で、ドイツの政治教育学者ゲオルグ・ヴァイセノ教授が、「生徒から『先生はどう考えるか』と聞かれて、教師が沈黙することはあり得ない」と述べている。このような各国のあり方に比べ、日本においては、指導者たる教員の個人的な主義主張を述べることは政治的中立を欠くとされ、一律に「禁止」する傾向がある。これは、授業の自立性・独創性を縛るもので、文科省は示した主権者教育の目的にも反するものである。日弁連もこの点について、「現実の政治課題について子どもたちが学校内外で自由闊達に意見を表明したり議論したりすることが過度に制限されることになりかねない」と批判している。

 私たちは考える“主権者教育”は、「自分たちの社会のあり方・生き方をつぶさに見つめ、自分らしくよりよく生きる」ことを育むものである。従って主権者教育は政治教育でもある。「政治が生み出している社会事象に対し、政治にどのように反映され、その結果、現実社会がどのようになっているのか」を批判的に検証し、「よりよい社会を築くためにどのように政治に関わっていくか」を身につけていくものである。
 そのため、子どもはもちろん教職員も含めた「わたしたち」が、ともに学び、育つ関係をつくっていかなければならない。学校での生活に子どもの意見が踏まえられ、誰もが尊重され認められる学校づくりが、今まさに必要なのである。

学校改革・教育課程自主編成推進委員 筆
一般財団法人 北海道労働文化協会発行『労仂文化』より転載

 2019年の正月早々、新聞広告に目を奪われました。油にまみれた海鳥が悲しげに遠くを見つめる写真。そのキャッチフレーズは、「嘘つきは、戦争の始まり」。新年から心にドーンと響きました。

 今の世は“嘘”をついてごまかし、その場をしのげばいいようです。もっともらしい数字を並べて、目に見えるもの・現象ばかり注目させ、その数字の背景に隠されている要因からは目をそらさせる、そんな風潮にうんざりします。

 時の権力者は数字をあやつり、不都合な真実、つまりは「本質」を隠そうとします。道教委の研修に行っても、「いじめ・不登校の件数が○件増えました」「児童虐待の認知数がここ○年で10倍になりました」など数字ばかりが並び、その増加している原因、つまりは「本質」をとらえないまま、現場での対策や各種機関との連携などの対処法ばかりを迫られます。

 こんな日常のグチみたいなことを書き連ねましたが、理科教員の私の拠り所は…「自然は嘘をつかない」。自然を見つめたとしても、「いじめの増加」の「本質」は直接的には見えてこないかもしれません。しかし、自然を見つめ自然から学ぶことで、「本質」を見る視点を学ぶことはできるのです。そんな視点をまずは私たち教職員が取り戻す。そして、それを子どもたちに伝えていく。そうしないと、現象ばかりをとらえた薄っぺらな場当たり的な教育となってしまいます。それは、子どもたちが「何のために学び、どう生きるのか」を考えることができなくなり、思考停止の状態になっていくことを意味します。

 「全国学テ」は、現象だけを見て「本質」を見ていない典型例です。「平均点を上げてどうなるの?」「点数アップは、子ども・保護者が望んでいることなの?」「そもそも学力ってなんなの?」そんな「本質」はすべて棚に上げて「点数!点数!」と叫んでいることは、普通に考えておかしなことだと思いませんか。これでは、子どもたち一人ひとりがめざす人間的な成長、つまりは『人格の完成』にはつながっていきません。子どもたち、いや、人それぞれめざすべき生き方が違って当たり前だし、その歩みもそれぞれ違って当たり前です。これらを、国やおとなが決めてしまってはなりません。しかしなんだか最近は、個々人の違いが表出されることすら妨げられているような気がしてなりません。知らず知らずのうちにおとなの都合のよい枠を創り上げ、そこに子どもたちを閉じ込め、枠からはみ出さないように仕向けていく。そうではなく、子どもたち一人ひとりが「自分らしく、より良く生きる」ための学びを展開していきたい。学びが生きることと直結し、学びから自分の考えを進化させ、行動する。持続可能で、自分も他人も幸せになるために「自分はどう生きるのか」そんな視点の学びが本当の意味での「主権者教育」ではないかと考えます。

 理科教育は、単に科学の法則や知識を学ぶ教科ではありません。学びの中から、生き方を考えさせることが可能な教科です。科学の専門性の檻に理科教育を閉じ込めていてはいけません。点数ばかりを追いかけていても、生き方をとらえさせることは不可能です。
 放射線、原発の授業。「放射線の危険性があるから原発は都市部には造らない。電力が必要なのは都市部なのに」。この客観的事実に対し、ある子はこう発言しました。「先生!それは差別でしょ!!」そうなんだ。原発は差別の構図が隠されている。そして、核と人類は共存できない。こんな「本質」を少しずつとらえていくのです。

 プラスチックの授業。ポリエチレン(PE)やポリプロピレン(PP)など教科書には、プラスチックの略称と正式名称、燃やした時の特徴や水に浮くのか沈むのか、そしてその用途がびっしりと記載されています。人類は、プラスチックを手に入れて生活が便利になりました。しかし、その裏に隠されていること…海や海岸に大量のプラスチックゴミが漂っている現実を動画や写真で観てみます。このままの勢いでプラスチックを使い続けてゴミを垂れ流していれば、数十年度には、海に生息する生命の質量とプラスチックゴミの質量が同等になるという試算を伝えます。人間以外の生物がプラスチックを餌と間違えて飲み込んだり、体に絡みついて命を奪われたり…ネット検索等で子どもたちと一緒に情報を共有していきます。教科書にプラスチックの特徴として書いてある「腐らない」「丈夫である」ことが、どれだけ生命を脅かしているのか。あげく、細かく砕かれたマイクロプラスチックは、ついに人体からも検出されています。プラスチックの性質を暗記することよりも、プラスチックを今後どうしていくべきかを考えていく方が大切なのです。

 しかし、こうしたことを考えるのが苦手な子どもたちが増えています。それは、私たちおとなが答えのある課題ばかりを出し続けてきたからだと思うのです。正しいかそうでないかをすぐに求め、考える習慣を失わせてしまっているのです。すぐに答えは出ないかもしれないけれど、モノ・コトを自分たちに引きつけて、とらえて考えてみる。考え続けることに意義があることを子どもたちにとらえさせていきたいものです。そして、考えてみたことを行動に移してみる。つまりは、自分の生き方の道としていく。そんな授業を子どもたちと紡いでいければ、「主権者」が育っていくのではないかと考えます。

 ある子どもから「レジ袋が有料となるニュースを見た」との発言。授業でやったことか少しでも心に残っていてくれたのかとうれしくなります。「僕がコンビニの店長だったら、マイバッグを持ってきてくれたお客さんにはポイントをつけるなぁ」「袋がどうしても必要だったら、土に還る紙袋にしよう」、一つの発言から話が深まっていきます。一人ひとりが自由に考えてみたらいいのです。「昨日、コンビニで飲み物買ったとき、袋はいりませんって言ってみたよ」そんな声も聞こえてきました。「買い物にレジ袋がいるのかいらないのか」をわざわざ「道徳」の授業で価値観を押しつける必要はありません。学んだことを活かしてその時々にどう考え、どう行動するか、行動できるのか、日常生活上で考えることが社会を創る主権者としての一歩ではないかと思います。

 「本質」をとらえることができれば「主権者」は育つ。私たちは、教育に「本質」をとらえさせる観点をどんどん盛り込み、「主権者教育」をすすめていきたいのです。

北教組 理科教育教科研究委員 筆
一般財団法人 北海道労働文化協会発行『労仂文化』より転載

 僕は後志管内の中学校で数学を教えています。学校の仕事って、授業をするだけとよく勘違いされますが、実はそれ以外の仕事の方が多いんです。
 授業以外の仕事で大きくウェイトを占めるのは、学校行事です。その行事の中でも年間で1番か2番に時間をかけるのが、「学校祭」です。最近では、「学校行事より勉強」のような風潮もありますが、僕は、この学校祭というものも良いものだと思うのです。
 僕が副担任をしている3年生は、無謀にも「吉本新喜劇のようなお笑いがやりたい」と言い出したため、子どもたちが作った台本をリライトするというオーダーをいただき、本校版新喜劇を作りました。
 演出は僕ではなく、担任の先生と生徒。これがなかなか面白くて、終始笑い続けていました。たった2週間しか稽古期間はないし、子どもたちは勉強が終わってから練習するので、30分のお芝居とはいえ、完成できるのかいつもヒヤヒヤします。
 しかし、子どもたちのパワーというのは凄まじく、「こりゃ、無理だろ」というピンチも若さで乗り切ります。「こんな風にやれ」という指導よりは、子どもたちに任せた方が面白いものができるから驚きです。

 僕が勤める学校のもう1つの目玉は合唱です。たった70人しかいない学校なので、学年の垣根なしに全員で謳う全校合唱という演目があります。今年は「あさがお」という素敵な合唱曲を子どもたちが歌いました。
 どこかの大きな学校や、合唱部の歌には、とうてい技術的には及ばない合唱なのです。しかし、さまざまな年齢、背丈、性格、生活環境の子どもたちが、全員でひとつのものを作り上げようと努力する姿を見てしまうと、本番は涙腺が緩くなってしかたないわけなんです。

  負けないで 強い心で
  立ち上がって すすんでも
  負けそうな 弱い自分に
  寄りかかってしまう

  悔しいって流す涙は
  たぶん
  今までの自分に さよならを言って
  歩き出すための
  エールなんだ
                   「あさがお」より

 こんなキラーチューンを、中学生に歌われると、もうどうしようもないですね。エモさの塊みたいな合唱曲だけど、彼らが歌うとなんの嫌みもないのです。廊下で数人の子どもたちが、口ずさみながら歩いているのを聞いて、また、涙腺が緩んでしまうのです。
 「先生どうしたんですか」と問われるも、「あ、なんか目に入ったみたい」と嘘をついてしまうのは、僕が大人になった証拠なんですかね。
 世の中、恵まれた子どもたちばかりではありません。大変な思い出10代を過ごしている中学生もたくさんいるのです。まっすぐ育ちたくても、そう簡単に人生はエールを送ってはくれない場合もあります。そんな子どもたちをたくさん見てきました。
 でも、せめて、未完成なピッチのずれた合唱のように、彼らに時々、素敵な人生の奇跡が起こることを願っています。だから、僕が彼らに言う「素敵な歌だよ」という言葉には嘘はない。何度聞いても、やっぱり、いいんですよね。

 「でも、結局、完成度はどうなの?」
 いや、今日はいいです。そういう話。完成度より大切なものがあること、僕は知っているので。

 ※「点数学力」「国家道徳」など「人材育成」の場と化しつつある学校を、ゆたかな学びによる「人格の完成」の場としてあり続けるため、超勤・多忙化の中にあっても奮闘する現場教職員の生の声をお届けしました。

北教組後志支部 副支部長 筆
一般財団法人 北海道労働文化協会発行『労仂文化』より転載

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